秋の集い講演
京都出土の貿易陶磁器
日本考古学協会埋蔵文化財委員
東洋陶磁学会常任委員 鈴 木 重 治
京都で出土した焼きものの資料を美術工芸品の破片として見るのでなく、考古学で
考え、歴史的・文化史的に楽しみながら見るという研究法があることをお話したい。
これまでずいぶん多くの遺跡で調査を行い、宮崎県立博物館での18年間には長綺県の
福井洞窟のような旧石器時代から土器出現期への移行期のもっとも古い土器や、反対
に佐賀県の朝鮮の陶工の来日によって生れた唐津の陶器や伊万里の磁器などの近世の
ものに至るまで、いろいろなやきものを掘る機会に恵まれた。また、1957年からは同
志社大学にもどって、キャンバス内の遺跡調査を行い、平安京以来の輸入陶磁器を見
出すことができた。こういう調査現場を通じて教えられていることを、今日は京都を
通じて見てみたい。
洞窟の縄文土器も、京都における輸入陶磁器も、また京焼も、いずれも焼きものと
いう点では同じだが、それぞれの歴史的背景があり、どのようにして作られ、どこで
使われ、そして廃棄されたかを考古学的に見ると、単なる遺物としてでなく、またた
だの焼きものの歴史としてでもなく、人類の歴史が見えてくる。
焼きもののなかでは昔から珍重される順に格づけして「一萩二楽三唐津(あるいは
一楽二萩三唐津)」というが、そのなかでもとりわけ絵唐津が喜ばれる。たとえば松
が描かれると、松は年中青々としているので長生きを象徴すると見られ、ざくろは沢
山の実がついているので子宝に恵まれるものとして尊ばれた。蟹の絵は横歩きができ
るので、多くの子供と末永く発展する姿として選ばれ、ぶどうの絵も実が多いことと
つるが長いことで繁栄を願う人々に好まれた。このように陶器の形以上に文様がめで
たいものであることが使用する人たちの願いに適ったものとして選ばれた。抽象的な
亀甲文や祥瑞(しょんずい)文様などはその典型といえる。これはとくに日本の陶磁
文化の特色で‘‘見なしの文化,,と呼んでいる。
東アジアでも大陸、朝鮮半島さらに近世に至ってはセラミックロード(陶磁の道)
としてヨーロッパとの交流が開け、それぞれのお国がらが陶磁器に反映した。とりわ
け重視されるのが中国で、日本はもとより朝鮮、東南アジア(ベトナム、タイ、イン
ドネシアなど)で中国のものをオリジナルとして陶磁器が作られた。17世紀に明から
清にかわる(1644)と、政治経済的な不安から優れた技術者が中国から国外に出た。
日本の有田でも刺激を受けて、それまでに朝鮮の陶工によって作り出されていた磁器
(1616)が、中国の清の技術の影響で良質の磁器が生産され、伊万里の名でヨーロッ
パやアフリカへ輸出された。それまで仏教美術を核としているなかではマイナーだっ
た陶磁器が、安土桃山時代を経て17世紀になると、それまで中国の景徳鎮を重視して
きたヨーロッパが有田、伊万里の磁器をも輸入してそれを真似るようにさえなった。
同志社キャンバス内には公家屋敷、武家屋敷、寺院跡などがあり、古くは日本の各
地から京都へ持ちこまれた陶磁器をみていると、伊万里は磁器として、美濃は陶器と
しての歴史的な個性をもっており、生産と流通という経済的側面だけでなく、地域に
根ざした自然的・文化的な条件のもとでそれぞれの個性を主張しているようだ。
海外から輸入された高級な製品としては、中国の青磁、白磁、黒磁、影清(いんちん)、青花な
ど越州窯、竜泉窯、景徳鎮諸窯、徳化窯、建窯などで生産されたものが含まれている。
13世紀から17世紀にかけての資料がみられるが、15世紀のものが極めて少ない点に特
色がある。朝鮮陶磁も若干出土しているが、なかに朝鮮通信史にかかわる李朝の白磁
が注目される。
権力者ならではの高級磁器としてキャンバス西部の室町幕府の花の御所跡から釉裏(ゆうり)
紅(こう)の竜の絵の磁器片が出ている。この種のものはほかではみられない。
同志社大学のキャンバスから出土した陶磁器を「生産と流通」「技術の交流」とい
う視点からみると、もっとも注目されるのが中国産の貿易陶磁だ。これらは考古学的
にも世界史の大きな流れのなかに位置づけることができる。ヨーロッパ、イラン、エ
ジプト、東アフリカやメキシコに至るまで、世界的に流通した中国陶磁は、さまざま
な貿易によって日本にももたらされた。福岡の鴻臚館や博多の港で出土する資料と同
じものが京都でも出土する。
伊万里で受け入れた中国の製陶技術は、日本独自の色絵の技術を発展させ、さらに
その技術がヨーロッパへ伝播することになる。人類の遺産であるこれらの陶磁器は、
まさに歴史の生き証人なのだ。
(文責、宇佐晋一)